楽しいことも嬉しいこともあったはずなのに……悔いのみを抱いて生きてゆく遍路みち 夫・吉村昭氏の死から3年あまり、生き残ったものの悲しみを描く小説集 洗面所のコップの中の2本の歯ブラシを見ると、1本も虫歯のないことを自慢していたことを思い出した。夫の母親が、おまえは口もとがいいね、と言っていたという話をからかいながら口にすると、かれはふざけて口角を少し上げて笑ってみせた。育子はその笑顔を思い出して嗚咽した。――<「遍路みち」より>