無とは何か、死とは何か。真理は言葉によってとらえうるのか。これらの根本命題を課せられた人間を思うとき、われわれは、無を拠点とする東洋思想から、あまりに遠く隔たりすぎたのではないか。本書は、言葉を超えた真理を追究し、自然に帰れと説く老荘の哲学を核に、東洋自然思想の系譜を、禅から親鸞、宣長、芭蕉へとあとづける。西洋合理思想になれ親しんだ現代人にとって、東洋的虚無の立場から存在の本質に迫る必読の書。
人間の言葉は、ありのままの真理をあらわすに不適当である。そこに荘子の「弁ずるは黙するにしかず」という主張も生まれる。それでは沈黙を守ることだけが、真理を伝える唯一の道なのであろうか。沈黙は言葉に対立するものである。たがいに対立するものは同じ次元の上にあることになる。言葉が真理を伝えることができないとすれば、沈黙もまた真理を伝えることができない。とすれば「非言非黙」のみが、残された唯一の道である。それでは非言非黙とは、具体的にどうすることであるか。それは言葉を用いながらも、言葉にとらわれないことである。禅宗風にいえば、言葉は月をさす指であり、月のありかがわかれば、邪魔になる指は切りすてるがよい。――本書・不立文字の思想より
読売新聞書評より(本書掲載)
本書はインド的なものとの出会いによる複雑な展開を充分に腹にすえながら、中国的な無の思想〈老荘思想〉の大本を明確にし、かつその思想の変容のあとを概説した。著者は中国思想の専門家、ことに道家思想の造詣において定評がある。その専門的知識を駆使して、老荘思想の展開に新指標を打ち立てた野心作である。仏教の空思想を知る上で、中国的無の思想の実態を心得ておくことは大切である。本書はそのような要望にも格好の手引き書となる。
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