「「社会」のない国、日本 ドレフュス事件・大逆事件と荷風の悲嘆」既刊・関連作品一覧
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20世紀初頭に日仏両国に勃発した二つの事件。冤罪被害者は、なぜフランスでは救われるのに、日本では救われないのか? 二大事件とそこに関わった人々のドラマを比較し、日本に潜む深刻な問題が白日の下にさらされる。「日本」という国家はなくても、日本という「社会」は存在できる。永井荷風の悲嘆を受けて、「共に生きること(コンヴィヴィアリテ)」を実現するための処方箋を示す、日本の未来に向けられた希望の書。
本書は、国家による冤罪事件として知られるフランスのドレフュス事件(1894-1906年)と日本の大逆事件(1910年)を取り上げ、日仏両国の比較を通して、日本に見出される問題が今日もなお深刻なまま続いていることを明らかにする。
スパイの嫌疑を受けて終身刑に処せられたユダヤ系の陸軍大尉アルフレッド・ドレフュスは、軍部や右翼との闘いの末、最終的に無罪になった。その背景に作家エミール・ゾラをはじめとする知識人の擁護があったことはよく知られている。一方、天皇暗殺計画を理由に起訴された24名が死刑宣告を受けた大逆事件では、幸徳秋水をはじめとする12名が実際に処刑されるに至った。
二つの事件に強く反応した永井荷風は、ゾラと自分を比較し、自分の情けなさを痛感した、と告白している。そこで刻み込まれた悲嘆の深さは、荷風に戯作者として隠遁生活を送ることを余儀なくさせるほどだった。
ここに見られる違いは、どうして生まれたのか。本書は、両事件を詳しく分析することで、その理由が日本には「社会」がないという事実にあることを突きとめる。「日本」というのは国家の名称に尽きるものではない。国家が存在しなかったとしても、社会は存在しうる。そして、国家が個人に牙を剥いてきたとき、社会は個人を救う力をもっている。しかし、この国には、国家はあっても社会はない。それが、ドレフュスは無罪になったのに、幸徳らは見殺しにされた理由である。
今日も何ら変わっていないこの事実に抗い、「共に生きること(コンヴィヴィアリテ)」を実現するための処方箋を示す、日本の未来に向けられた希望の書。