「鉞子(えつこ) 世界を魅了した「武士の娘」の生涯」既刊・関連作品一覧
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『福翁自伝』にひけをとらぬ内容、と司馬遼太郎が驚嘆した自伝の筆者が、本書の主人公・杉本鉞子。父は戊辰戦争に敗北した長岡藩の筆頭家老。維新後生まれた鉞子は、苦学の末、アメリカに渡り結婚、夫の死後、自伝を表わしアメリカ人の琴線に触れる。その『武士の娘』は、ベストセラーとなり、同時期に出た『グレート・ギャツビー』に負けぬ評判をとった。戦争を生き抜き日米の架け橋となった杉本鉞子、初の評伝。
あの司馬遼太郎がその存在を知らず、一読して『福翁自伝』にひけをとらぬ内容、と驚嘆した自伝がある。
1925年(大正15年)、アメリカで無名の日本人女性が英語で書き下ろした『武士の娘』が刊行され、その年のベストセラー・リストに載った。『グレート・ギャツビー』と並ぶ売れ行きで、異例の8万部が世に出た。
著者・杉本鉞子は明治5年生まれ。父は長岡藩の筆頭家老で、司馬遼太郎の『峠』の主人公・河井継之助と幕末に対立し、藩の役職を追われたいわば没落士族である。維新後は、いわゆる武士の商法から零落する。
それにもかかわらず、鉞子は厳しい教育を受け、10代で東京へ出てクリスチャンの学校へ通い英語を身につける。卒業後、浅草で教職につくのは、ちょうど樋口一葉が同地に移り住む頃だった。
縁あって、アメリカ中部で美術商を営む杉本松雄に嫁ぐのが明治35年。しかし、42歳で寡婦となった鉞子は、二人の娘を養育しながらアメリカにとどまる決意をする。
生涯、彼女をサポートしてくれたアメリカ人女性との邂逅。食べるためにはじめた新聞・雑誌への投稿が、編集者の目に留まり一冊となる。それが『武士の娘』だった。ニューヨークへ移り住んだときには、コロンビア大学の教壇で日本語と日本史を、日本人女性としてはじめて教えた。
戦争をはさみ、『武士の娘』以降3冊の本を書いた鉞子は、昭和25年に息をひきとるまで日米の架け橋となった。アメリカでは有名人、日本では無名―忘れられた杉本鉞子の一生を描く。
ちなみに『武士の娘』は、現在もちくま文庫で、順調に版を重ねている。かつ、昨年鉞子のアメリカ時代の書簡が発見され、地元・新潟の会津八一記念館で展示されている。