「神宮の奇跡」既刊・関連作品一覧

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神宮の奇跡

50年前、天皇家と神宮球場で同時に「ふたつの奇跡」が起こった。
高度経済成長前夜、「戦後」を断ち切るかのように起こったその奇跡とは――。
ベストセラー作家が渾身の取材で描き出す「青春群像」と「あの時代」。

昭和33年11月、東都大学野球1部リーグは三校が同じ勝率で並び、前代未聞の巴戦による優勝決定戦に突入した。
中央大学、日本大学、そして学習院大学。一人の甲子園球児もいない学習院大学は、のちにプロ入りするメンバーが
ずらりと並ぶ強豪に敢然と立ち向かった。
そのマウンドを守ったのは、引き揚げの時に父や妹たちを失い、天涯孤独となって祖国日本へ帰り着いた井元俊秀だった。
戦争を引きずった若者たちが必死に強大な敵に立ち向かっていく中、それを応援し、見守った皇太子殿下(今上天皇)も、
大きな“闘い”を抱えていた。
3度も繰り返された優勝決定戦の末に学習院大学が偉業を成し遂げた時、「天皇家」にももう一つの奇跡がもたらされていた――。

「皇太子妃・正田美智子」が発表され、日本中が「ミッチー・ブーム」に沸き返るまでの知られざる物語。
それはまさに、日本が「戦後」を払拭し、爆発的な発展に向けて走り始める「瞬間」の出来事だった。
日本が夢と希望に満ちていた時代の「奇跡」が、現代に問いかけるものとは――。

「プロローグ」より

「これで死なないですむ……」
頬がこけ、顔色は青白く、ボロをまとった一人の少年が、釜山からの引き揚げ船「徳寿丸」からこの地に降り立ったのは、
昭和二十一年六月二十一日のことである。
「本当に日本に帰ってきた……」
わずか九歳に過ぎないこの少年が祖国の地を生きて踏んだこと自体が奇跡だったと言えるだろう。
血のつながった肉親を失い、事実上の天涯孤独となって日本に辿り着いたこの少年は、乗船した釜山港で、ダニやノミ、虱の
退治のために身体が真っ白になるまでDDTをぶっかけられた。過酷な逃避行によって痩せさらばえ、栄養失調に近い哀れな姿を
博多港の潮風に晒していた少年は、それから十二年後、学生野球のメッカ・神宮球場のマウンドに立っていた。
昭和三十三年秋――。
逞しい