鉦(かね)鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか
空穂の代表的な短歌、それに対峙する三部構成の散文。「母の写真」「不惑の齢」「老の顔」ほかで、わが来し方を綴り、「歌人和泉式部」「橘曙覧の歌幅」「与謝野寛氏の思い出」「斎藤茂吉『寒雲』の技巧」などで和歌、短歌論に及び、「香気」「電車の中で」「年賀状」では日常の様々を記して柔らかな心を表出。著者の偉業の精髄を凝縮し編纂。
あらゆる植物にはその物に限っての香がある。別けて香の強いのは花で、かの雄蕊は雌蕊を、雌蕊は雄蕊をと、相思う力が熾(さか)んに、花粉の授受の行われる時には、芳香はさながら蔵の戸の開かれたがようにその中より限りもなく吐き出される。これは花粉を授受する為よりか、又はその媒介の役をする蝶、蜂を招く為であるか、何れにもせよ生殖を中心として起り来ることだ。そして我等の香水と称する物は、この時において獲られる。――<本文「香気」より>
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