根まわし、政略婚、嫉妬、ゴマすり、密告
人事で読む江戸社会
庶民に愛された長谷川平蔵がなぜ町奉行になれなかったのか?
松平定信の真意、ライバルたちの暗闘を寛政期の史料から読み解く。
●鬼平の陰にいた“名奉行”
●有能な人材が競った寛政期
●紛糾した北町奉行の後任人事
●庶民も同情した鬼平の不遇
●「好色将軍」家斉と“乳母問題”
●森山孝盛と武士の出世
●江戸に帰って猟官運動
●出世のお札で大散財
紛糾した北町奉行の後任人事――寛政3年(1791年)12月20日、北町奉行初鹿野河内守(はじかのかわちのかみ)が死んだ。享年48とまだ若い。中風の発作だということであったが、実は御役筋に不首尾なことがあり、切腹を命じられたとのもっぱらの噂だった。後任の町奉行についても色々と観測された。、
当時、江戸で最も人気があったのは、言うまでもなく火付盗賊改の長谷川平蔵である。彼は、町奉行の万年候補であった。平蔵の対抗馬として下馬評に上がったのは、松本兵庫頭(ひょうごのかみ)という物だった。奉行は空席のままで寛政4年に入り、世間の噂はますますかまびすしい。
次に下馬評に上がったのは、小普請の組頭から目付に進んでいた中川勘三郎と勘定奉行の根岸肥前守(ひぜんのかみ)(鎮衛(やすもり)、500石)である。根岸は、有名な随筆「耳嚢(みみぶくろ)」を残している。寛政期の幕閣によほど信頼されていたのだろう。――(本書より)
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