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江戸開幕

家康と秀忠、家光の徳川三代が、どのようにして二百六十余年に及ぶ盤石な幕府体制を築きえたか。大坂の陣を前にした一門、譜代大名配置による大坂包囲網の完成をはじめ、豊臣恩顧の外様大名対策や天皇・公家など朝廷への支配権確立、さらに将軍が病床にあっても政治がスムーズに運営される老中制度の成立など、長期政権を支えた様々な要因を解明した近世日本史の名著。


豊臣氏の関白政権とは異なる将軍制を選んだ家康と秀忠、家光の徳川三代が、どのように二百六十余年におよぶ盤石な幕府体制を築き上げたか。その要因を豊臣恩顧の外様大名対策や天皇・公家など朝廷への支配権確立、幕府老中制度の成立などから明らかにする。1600年、関ケ原の合戦に勝利し、1603年に征夷大将軍になったあとも家康と豊臣秀頼の君臣関係は明確とならず、この矛盾は1615年、大坂夏の陣による豊臣氏滅亡によってようやく解消される。真田丸を砦に家康本陣に突入、徳川方を大混乱に陥れた真田幸村は奮戦むなしく松平忠直の兵に討たれた。徳川方15万5千、豊臣方5万5千という関ケ原を上回る大規模な戦闘の結果、徳川幕府は名実ともに天下を掌握。同年、「武家諸法度」と「禁中並公家諸法度」公布で全国の大名および朝廷への幕府権力浸透を図る。翌1616年の家康死去後、1620年の大坂城大普請が「御代替わりの御普請」とよばれたように秀忠死去直後の家光による熊本藩加藤忠広の改易は「御代始めの御法度」としてなされ、いずれも将軍の権威と権力を高めた。これ以前の1609年、朝廷内で起こった宮女と公家衆の密通事件で家康は後陽成天皇の厳罰姿勢に介入し、穏便な処分を下すことで天皇・朝廷をその政治体制に組み込むことを認めさせた。あらゆる機会を利用しながら、幕府権力を拡大し、島原の乱を経て鎖国を完成させた幕府は日本を「華」とし、朝鮮通信使・琉球の慶賀使、オランダ商館長の江戸参府を通じて、それらを「夷」とする日本型華夷秩序を幕末まで存続させたのだ。
原本:『日本の歴史 12 江戸開幕』集英社 1992年刊