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めぐり逢い 新島八重回想記

 天保14年、新島襄は上州安中藩江戸屋敷詰の祐筆の家に生まれる。尊皇攘夷運動の中、キリスト教精神に触れてアメリカへの密航を決意する。他方、八重は会津藩の砲術指南役の家に生まれる。藩主・松平容保が京都守護職に任ぜられ、鳥羽・伏見の戦いが勃発する。──単身渡米して西洋の精神を学ぼうとする襄。会津城で最後まで戦った八重。後にキリスト教精神の「良心」に基づく大学創設に結実するそれぞれの人生の軌跡とは!


 天保14年(1843年)、新島襄は上州安中藩江戸屋敷詰の祐筆・民治の長男に生まれる。11歳のときにペリー来航を経験し、14歳で元服。祐筆補助役に任ぜられる。その後、尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる中、襄は外国に憧れるようになり、勝海舟の軍艦教授所に学ぶ。さらには禁制の聖書を入手してキリスト教精神に触れ、いよいよアメリカへの密航の決意を硬くする。無謀な計画は実を結び、襄は函館からアメリカ船への乗船に成功する。22歳の夏のことだった。
 他方、八重は会津藩の砲術指南役・山本権八の三女に生まれるが、兄妹は多くが夭逝し、兄・覚馬と弟・三郎の3人兄妹だった。幼いころから父に学問を学び、兄に武芸の手解きを受けた。その後、兄覚馬は父の後を継ぎ砲術指南役として江戸勤番を命じられる。3年後、兄は江戸の洋学者・川崎尚之助を伴って帰国する。尚之助は藩校の教授となり、後に兄の勧めでその尚之助と八重は結婚をする。世間の娘よりもやや遅い、17歳のときのことだった。それから間も無くして、尊皇攘夷の運動の最中、藩主・松平容保が京都守護職に任ぜられる。兄と弟は、上京する藩兵1000人に加わる。慶応四年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いが勃発。弟は戦死し、兄は行方不明に。会津に薩長の大軍が押し寄せようとしていた。
 ──単身アメリカへ渡って西洋の学問と精神を学ぼうとする襄。戊辰戦争で会津城に籠城して最後まで戦った八重。後にキリスト教精神の「良心」を基本とする同志社英学校創設に結実するそれぞれの人生の軌跡。二人を結びつけたものはいったい何だったのか!