「西武百貨店の手前にある「ビックリガードの五叉路」と呼ばれているところで、私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」…まず冒頭のこの文章で悩んでしまうのだが、読み進めると、無性に大切なものを抱きしめたり、眠ったり、子供の頃を思い出したり、セックスしたり、何処か知らない所に行きたくなる。チェーホフ、宮沢賢治、小島信夫、セシル・テイラー、三上寛に彩られたこの小説は、今を大切にしたくなる本の最高峰である。
「ずいぶん鮮明だった夢でも九年も経つと細部の不確かさが現実と変わらなくなるのを避けられない。明治通りを雑司ヶ谷の方から北へ池袋に向かって歩いていると、西武百貨店の手前にある「ビックリガードの五叉路」と呼ばれているところで、私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」 これは『未明の闘争』の始まりなのだが、引き込まれながらも、違和感を感じ、いろいろと考え悩んでしまう人もいるだろう。著者の保坂和志さんが『未明の闘争』について書いているので触れてみたい。
《冒頭の段落で、「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」という文法的におかしいセンテンスが出てくるが、文章というのは記号としてたんに頭で規則に沿って読んでいるだけでなく、全身で読んでいる。だから文法的におかしいセンテンスは体に響く。これはけっこうこの小説全体の方針で、私はその響きを共鳴体として、読者の五感や記憶や忘れている経験を鳴らしたいと思った。》
鳴らされる。読み進めていると、無性に大切なものを抱きしめたり、眠ったり、子供の頃を思い出したり、セックスしたり、ジミ・ヘンドリックスの曲を聴きたくなったり、何処か知らない所に行きたくなるのだ。
そして、この小説について、ある人はジョイスに匹敵するといい、また他の人はガルシア・マルケスに比肩するといい、いやいやドストエフスキーだと話す。それにしても、大作感溢れているのに私たちの近くにあるのはなぜか。もう一度、保坂さんの文章に頼ってみる。
《作者は作品の外にいる存在だから、作品に働きかけることはあっても、作品から働きかけられることはない──つまり作者は作品に対して神のような存在であり、作品に流れる時間の影響受けない、というのが普通の作品観だが、一年くらい経った頃から「それはおかしい。おかしいし、つまらない。」と思うようになった。》そうなのだ。3・11以降の日常と非日常がごちゃまぜになっている我々の本当にリアルな現実が目の前に登場してくるから常に新しいのである。そう、この『未明の闘争』は我々の物語なのである。
チェーホフ、ゴーゴリ、宮沢賢治、小島信夫……という文学や、セシル・テイラー、三上寛、ローリング・ストーンズ……という音楽に彩られたこの小説は、【今を大切にしたくなる本】の最高峰といえる。
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