裕次郎
裕次郎が52歳の生涯を閉じてから30年。生粋の裕次郎ファンであり、彼の歌なら100曲以上は唄えるという東大名誉教授・本村凌二氏がこのたび、1章につき1本の映画を丹念に辿りながら、裕次郎が生きた60年代について書き下ろした。石原裕次郎と共に歩んだあの時代の物語が、幕を開ける。
2017年7月、裕次郎が52歳の生涯を閉じてから、30年を迎える。
死後30年を経てもなお、彼を愛してやまないファンは数多いだろう。
生粋の裕次郎ファンであり、彼の歌なら100曲以上は唄えるという東大名誉教授・本村凌二氏は、彼の「リーダーとしての側面」に注目する。
「ことさら裕次郎に注目するのは、昭和史の世相の一齣を語るためではない。私には、裕次郎は稀に見るリーダーとしての資質を備えた人物である、と思えてならないのだ。それは、肝がすわっている、大局的な見方ができる、戦略的思考にたけている、などの次元ではない」
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なぜ、彼はそれほど魅力的だったのか? なぜ、あの時代に彼は登場し、最も愛され、熱狂的支持を集め続けたのか?
『狂った果実』『俺は待ってるぜ』『嵐を呼ぶ男』『世界を賭ける恋』『太陽への脱出』『夜霧よ今夜も有難う』・・・・・・本村氏はその答えを探るべく、1章につき1本の映画を丹念に辿りながら、裕次郎が生きた60年代について書き下ろした。
裕次郎の生き様に憧れていた本村氏があの時代を振り返るとき、読者にはこの日本に足りない「傑物」の実像が見えてくるだろう――石原裕次郎と共に歩んだあの時代の物語が幕を開ける。
<本文より>
私が裕次郎の映画を見たのは「嵐を呼ぶ男」が最初である。総天然色の作品だった。正月映画として年末に封切られたので、お祭り気分で見にいった。一〇歳の小学四年生だった。同じころ、真空切りの少年剣士の映画『赤胴鈴之助』も見ているから、未熟でアンバランスな少年期だったのだろう。
片手を潰された裕次郎がドラム合戦のなかで手を伸ばしマイクをとって歌いだす。その意外さと格好よさに聴衆の割れんばかりの大喝采がおこり、その熱気は映像の観衆をものみこむかのようだった。私もまた目を輝かせて見ていた記憶がある。
画面の観衆も映画の観衆も一体となって興奮の坩堝と化したのであり、その名場面は伝説のごとく後世にも語り継がれたらしい。
国民的ヒーローとしての裕次郎が誕生したときである。
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